野焼祭40周年に寄せて

塩野 毅 氏

塩 野   毅

野焼祭40周年、心よりお祝い申し上げます。
本間先生と祖父半十郎がこのお祭りを始めた縁で参加させて頂いております。野焼祭の思い出といえば、生前の祖父が目を輝かせてこのお祭りのすばらしさを語っていたこと、そして嬉しそうに夜行列車に乗る準備をしていたことです。お酒の好きだった祖父は一杯やりながらの夜の旅を何より楽しみにしていました。祖父は病の床についてからも祭りに参加することを切望しており、亡くなる年も病院で先生方に何とか参加できないかお願いするほどでした。

私が野焼祭に初めて参加したのは、20年ほど前でしょうか。祖父が他界した後は両親が参加しておりましたが、父文男が脳梗塞で倒れ治癒後再び参加する時に付き添いとして参りました。一関のホテルに宿泊したのですが、父との二人きりの旅行はこれが最初で最後で、良い思い出として残っています。
今年5月に父(平成11年6月没)の17回忌にあわせて祖父(昭和59年9月没)の33回忌の法要を執り行いました。記念の年にこれらの法要を行えたことに、野焼祭との縁を感じずにはおれません。この縁は今では私の子供達にまで繋がっております。

野焼祭がこれまで発展し続いておりますのは、本間先生を初めとする焼成指導員の方々、野焼祭実行委員の方々、そして、地元にとどまらず全国から作品を寄せられる方々のご努力と熱意の賜物と存じます。皆様方のご健康と野焼祭の益々のご発展を祈念致します。


いまに生きる祭り


岡本太郎記念館 館長
平 野 暁 臣

藤沢野焼祭には嘘がない。
参加者の情熱、燃えさかる炎、生み出される作品の魅力…。
すべてが〝本物〟なのだ。
この祭りに特別なオーラがあるのはそのためだろう。
いま祭りの多くは「観るもの」になった。
シナリオや演出が幅をきかせるショーになっている。
だから「つくりもの」のにおいがする。
しかも、出演者と観客、送り手と受け手が二分されているから、参加できない。
参加者という名の見学者に甘んじるしかないのだ。
だがこの祭りはちがう。
地域の人々がまさしく〝参加〟し、本気で祭りに溶け込んでいる。
「自分だけの作品をつくりたい」「新しいなにかを生み出したい」…。
できあがった作品を見ていると、そうした思いがひしひしと伝わってくる。
なにより心から楽しんでいることがよくわかる。
だから作品を見ていると嬉しくなる。
ものをつくる喜びがストレートに感じられるからだ。
そうした参加者の情熱が人を感動させ、共感を育む。
そこに生まれるのは「誇り」だ。
だから、この祭りの参加者はみな、少しだけ誇らしい顔をしている。
岡本太郎が惚れ込んだのもとうぜんだ。
町民たちのようすを見て、さぞ嬉しかったに違いない。
そこに本物の祭りを見たからだ。
この祭りはいまも生きている。
藤沢野焼祭は稀有な祭りだと思う。
いつまでも続いてほしい。


40周年に寄せて

佐藤 陽子

佐 藤 陽 子

あの日のことは、25年経った今でも昨日の様に鮮明である。池田満寿夫も私も初めて藤沢町の野焼祭、〝縄文の炎〟との出会い。それも15周年というので実に盛大に行なわれた。各地から1万人の人々が集まり縄文の魔力に酔いしれた。私達2人にとって、特に満寿夫にとってそれは素晴らしいカルチャーショックになった。また一生における最も楽しい思い出の一つとして残っている。
ゲストもスゴかった。縄文人そのもののような岡本太郎氏。岡本敏子さん。陶芸界の大御所、辻清明氏、夫人で同じく陶芸家の協さん。池田満寿夫のことはもう言うまい。とにかく全てが刺激的でウキウキムード一色。
さらに満寿夫は、藤沢町ですっかり野焼に目覚めてしまい、住処なる熱海で試みてから再度藤沢町へ行って野焼で作品集を創刊することを決めた。私はその時珍しく一緒しなかった。そのせいでもないだろうが当時の町長佐藤守町長さん達と無茶苦茶飲んだらしい。もちろんそれが原因ではないが、出来上がった作品は全て崩壊状態。普通なら、ではもう一度チャレンジを、と行くのだろうが、満寿夫は違う。〝壊れたところに美あり〟とか何とか言っちゃって、そのまま写真集にしてしまった。確かに崩れた中に悲しくも激しい美はある。
今となっては全てがなつかしい。以後25年間の間にたくさんの出会いと別れがあった。今年藤沢野焼祭40周年を迎えるにあたって、もう一つ新しい息吹の始まりを期待したい。とにかく終わることない縄文野焼への情熱に乾杯!!


『藤沢野焼祭40周年によせて』

辻 けい 氏

辻   け い

藤沢野焼祭40周年、誠におめでとうございます。
その壮大なコトの大地に初めて触れたのは、『縄文の炎』と題された1990年8月16日でした。20基のそれぞれの神々しい炎に目を奪われました。以後25年の歳月が経ったのは嘘のようで、今でもそのコトが身体記憶に鮮明です。火熾しに始まり、烈風が吹き、炎もヒトも徐々に高揚し、そして20基の窯が一斉に紅蓮の炎に化した様は、私のなかに在る、歴然と有ることの体内記憶が甦ったかのようなコトの気付きの始まりでした。勿論その記憶というのは、遺伝子的な記憶の、得体の知れない洞窟の中のような太古の記憶の感覚と同時的なコトです。
父は自作の大きな筆で『縄文の炎』の文字を何度も書いておりました。その文字が今も藤沢の地で熱風のなか、旗めいている光景もまた感慨深いものがあります。『原風景』の命名者であり「日本人の原風景は縄文文化である」との持論ある恩師の、奥野健男先生と、子供の頃両親の仕事場で、岡本太郎画伯に抱き上げられたと聞かされた、その巨人お二人との再開が〈藤沢野焼祭15周年〉でした。その時の「縄文野焼サミット」の演壇は、強烈な個性たちの『縄文礼讃』の場面の連続でした。
2011年3月11日以後の東北。そして人類が抱えてしまった切迫の状況のなかで「縄文(文化)のこころを現代人は取り戻さなければならない!」と、心を張り上げている両親(辻清明・協)の姿が今、浮かんでいます。


「藤沢町のお宝」

遮光器土偶 相ノ沢(岩手県一関市)


遮光器土偶

Goggle-eyed dogu
相ノ沢(岩手県一関市)

晩期中葉(BC800年頃)
21.5cm

「土偶・コスモス」展

主催、会場:MIHO MUSEUM(滋賀県)

会期:平成24(2012)年9月1日~12月9日012)年9月1日~12月9日

百瀬 寿 氏

百 瀬   寿

この土偶の全国デビューの展覧会でありました。

あどけない、中性的な少年のような土偶、相ノ沢君である。

明らかに他の土偶とは異なる、浅い生焼けのような土の色は野焼きによるものであろう。
この藤沢町で約3,000年前に焼かれた土偶である。
約3,000年前!

この野焼祭は40周年を迎えるという。熱し易く冷め易い日本人の国民性としては本当に珍しい。これも「お宝」である。

大いなるマンネリを望む。