藤沢野焼祭の第12回(昭和62年)から現在までの塩野半十郎大賞入賞作品を掲載いたします
塩野半十郎先生について
塩野半十郎の生涯は、遺跡の発掘そのものでした。
縄文の炎「第20回岩手・藤沢野焼祭記念」 藤沢野焼祭実行委員会 平成7年発行より
明治31年(1898)現東京都秋川市草花の農家の長男として生まれ、尋常高等小学校を卒業後、家業の農業の傍ら、八王子市楢原遺跡発掘、秋川市草花前遺跡発掘、羽ケ田遺跡発掘、秋川市松山前遺跡発掘、昭島市拝島林の上遺跡発掘、日野市百草遺跡発掘、茨城県立木貝塚、花輪台貝塚発掘、秋川市瀬戸岡古墳群の調査等、多摩地方を中心として遺跡の発掘に奔走します。昭和50年、遺跡調査功績により、勲六等瑞宝章を授与されております。
また、昭和58年には収集品の全て(件数にして770件、総数にすると1万点を超える)を、東京国立博物館に寄贈され、塩野半十郎コレクション展が開催されました。盛大に行われたレセプションにご列席されました方々を拝見し、改めて先生の偉大さを再確認いたしました。また、本コレクション展には、藤沢町から出土した縄文時代石器も含まれております。
時を同じくして塩野半十郎先生から、本町に「椿」700本のご寄贈がありました。先生は闘病生活を強いられており、入院先の国立福生病院を訪ねました。自分が生涯をかけて品種改良し、育て上げた椿を気候の違う東北の地で花咲かせるために、ベッドの上で、手を震わせて枝の切り方、根回しの仕方を便箋に書いてくださいました。
藤沢町に贈られた椿は、藤沢陶芸センターに隣接した場所に「塩野半十郎椿園」として整備され、毎年赤や白、ピンク色の艶やかな花を咲かせています。しかし、塩野半十郎先生は、東北の地藤沢に咲いた椿の花を見ることなく、1984年9月他界されました。86歳の生涯でした。
先生の著書『多摩を掘る』の中に、先生の人生哲学を見ることができます。
「私は多摩の一隅に住む農民にすぎない、ただ七十余年の現在まで、考古、花づくり、土地改良など幾分わき道を歩んだだけである。しかしどの道にしても、ささやかながらも私なりの努力をしてきたつもりだし、今後も続けたい。」
藤沢野焼祭の生みの親であり、そして育ての親である塩野半十郎先生の魂を永遠に藤沢の地に残すことが私たちの使命であり、藤沢野焼祭の最高の賞として、先生のお名前をお借りし、「塩野半十郎大賞」としております。